わたしは、なんて生きにくい時代に生きているんだろう。
本を読み終えて、いえ、読んでいる間中、そう感じていました。この「生きづらさ」の根本はどこにあるんだろう。
チョン・イヒョンさんの『優しい暴力の時代』は、母と子、妻と夫、恋人、同僚、同級生たちの“日常”を描いた短編集です。その“日常”に流れる“優しい暴力”は、思わず目を背けたくなるほど自然に“そこ”にあるものでした。
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『優しい暴力の時代』
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翻訳者の斎藤真理子さんの「あとがき」によると、『優しい暴力の時代』という本のタイトルは、偶然思い浮かんだものだそうです。
収められている作品の中に同名のタイトルはないのですが、確かに全作品に共通しているのは、“優しい暴力”だったなと感じます。
“優しい暴力”という言葉を聞いて、思い出したのが「ソウル市民」という舞台でした。
「ソウル市民」は、1990年に、 平田オリザさんが主宰する劇団「青年団」が上演した舞台劇。日本の韓国併合前夜、ソウル(当時の漢城)に暮らす日本人一家の一日の物語です。
平田さんはこの作品で、支配者として暮らす人々の“無意識の悪意”を描いたと語っていました。
「差別なんてとんでもない。ぼくたちは朝鮮人を人間と認めていますよ」なんていう数々のセリフからにじみでる“無意識の悪意”に、舞台が終わっても立ち上がれないくらいの衝撃を受けたんですよね。
“無意識の悪意”は、韓国映画としてカンヌ国際映画祭で初めてパルムドールを受賞し、アカデミー賞の各賞を総なめにした映画「パラサイト 半地下の家族」にもみてとれます。
(このnoteは12月27日に行われた特別上映のことを書いていて、この時はまだアカデミー賞の行方は分かっていませんでした)
善良な市民の仮面に隠されていた本心は、21世紀になって堂々と歩き出したかのようにみえます。
「パラサイト」では、格差を無意識に肯定する人たちによる悪意が、はっきりと匂ってくるんですよね。それは『優しい暴力の時代』で、いちおうの恥じらいをもって、“優しさ”でカモフラージュされているように思えました。
思いがけない妊娠、振ってわいたような遺産、清水の舞台から飛び降りる気持ちでかったマンション。
“日常”を浸食してきた出来事によって、“優しい暴力”はそっと登場人物たちにつきまとうようになります。また、自分自身が無意識に“優しい暴力”をふるう側になっていることも。
この無自覚さこそが、クビを締めているのかもしれません。でも気づいてしまえば、さらにつらくなる。
きっとわたしも“優しい暴力”の当事者だから。
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