子ども時代の読書の充実は、成人としてからの心理的な充実に関わっているのだそうです。
いまの自分が、これまでに読んだ本でできているのだとしたら、わたしの場合はミルフィーユのように階層ができているかもしれない。
小学生のころは、民話や世界文学全集、中学生くらいからSFやショートショートを読むようになり、高校時代はミステリーを、大学に入ってからは哲学や心理学の本を手に取るように。ここ数年はビジネス書も読むようになりました。
単純に、活字を読んでいるのが好きなだけなんだと思います。
いま思うと、わたしを活字好きにしてくれたのは、コバルト文庫の小説群でした。
集英社コバルト文庫
https://cobalt.shueisha.co.jp/
多くはジュブナイル小説で、新井素子さんや、久美沙織さん、氷室冴子さんらの作品をたくさん読んでいました。現在のものは表紙がマンガっぽいイラストだけど、むかしはもっとシンプルなカットっぽいイラストでした。紺色の背表紙がなつかしい。
たくさんの物語世界の中で、わたしは胸をときめかせていたのですが、当の小説家さんたちは、「少女小説家」として嘲笑されていたと知り、大きなショックを受けました。
氷室冴子さんのエッセイ集『いっぱしの女』には、“女だから”とひとくくりにされる違和感が綴られています。
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『いっぱしの女』
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1977年に小説家としてデビューした氷室さんの代表作といえば、平安時代の恋愛物語『なんて素敵にジャパネスク』でしょうか。
あるカップルを、男女両面から描いた『なぎさボーイ』と『多恵子ガール』は、10代の少女にとってトキメキマックスな小説でした。
コバルト文庫の小説は、「りぼん」や「マーガレット」の少女マンガの世界を小説にしたような世界だったと思います。
氷室さんも、萩尾望都さんらの影響を受けたと語っていて、萩尾さんの性別を超越したようなキャラクター描写に感化されたのだそう。現実世界では、女性がトップになることが少なかった時代です。だったら物語の中では、女の子を主役に書こうと思ったのだとか。
『いっぱしの女』は、「いっぱしの女」と呼ばれてもおかしくない、30歳のシングル女性を取り巻く不条理を綴ったエッセイです。はつらつとしたキャラクターに魅せられていたむかしを思い出しつつ、日々の中にあふれる違和感をみつめる感受性の鋭さにドキリとして、胸がチクチク。
「いっぱしの女」という年齢をはるかに過ぎて、「いっちょまえの女」と呼ばれるようになりたいと思う今日この頃。
子どもの頃の読書が、いまのわたしを作ってくれているのだとしたら、女であるからこそ味わわなければならない違和感は、氷室さんに植え付けられていたのかもしれない。この言語化する力を学びたい。
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