クリント・イーストウッド監督デビュー50年、40作目の記念作という映画「クライ・マッチョ」を観ながら、なぜか最果タヒさんの言葉を思い出していました。
“人の心情とはばらばらで、辻褄のあわないものだと思うのだけれど、それゆえにひとつひとつに明確な言葉を与えていくと、自分の中で矛盾が膨らみ、自分を見失うことになるように思う。”
現代の日本では、スキルとしての「言語化」が注目されているけれど、言葉にすることでこぼれ落ちてしまうものもある。言葉にするということは、どうしたって具体の全部を表すことができないのだから。
そんな“不自由な”言葉への想いを綴ったエッセイが、『神様の友達の友達の友達はぼく』です。
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『神様の友達の友達の友達はぼく』
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この本のおもしろいところ、というか、校閲ガールとして苦しかったところは、カギカッコの中の文字が、中心からズレているところでした。
段落の最初の文章も、字下げの設定が自由。
これは……苦しい。
揃えたくなる。
そんな自分の感情と向き合いながら読んでいると、自分のかけている「色メガネ」が鮮明に感じられるんです。
人とつながることや孤独と付き合うこと、「世間」という謎の集団と自分との距離感などに、チクチクと揺さぶられている自分がいる。
わたしはどんな性格診断をしても、「孤独を愛しすぎている」と結果がでるくらいだけど、それでも、人と同じモノを持ち、人と同じ道を歩くことに安心していることがあります。
堂々巡りのつぶやきのように放たれる、数々の言葉の玉。ひとつずつポケットに入れて、ジャラリジャラリと感じていたい。
“心の壁をぶち壊すためのメソッドとか、わたしには時々暴力に思える。わたしの心の壁は、わたしのものです。あなたにぶち壊す権利はないと、静かに言える強さが欲しいわ。”
映画「クライ・マッチョ」は、メキシコに住む少年が、落ちぶれた元ロデオスターの男と一緒に旅をしながら、本当の「マッチョ=強さ」を知る物語です。
孤独のために、心に壁を築いていた少年と、老いた男の信念が、ジワジワと響いてきます。
不用意に放たれる言葉に傷つけられることもあるけど、救いもまた、言葉と共にあるのかもしれないと思った。
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