クリント・イーストウッド監督デビュー50年、40作目の記念作という映画「クライ・マッチョ」を観ながら、なぜか最果タヒさんの言葉を思い出していました。 “人の心情とはばらばらで、辻褄のあわないものだと思うのだけれど、それゆえにひとつひとつに明確な言葉を与えていくと、自分の中で矛盾が膨らみ、自分を見失うことになるように思う。” 現代の日本では、スキルとしての「言語化」が注目されているけれど、言葉にすることでこぼれ落ちてしまうものもある。言葉にするということは、どうしたって具体の全部を表すことができないのだから。 そんな“不自由な”言葉への想いを綴ったエッセイが、『神様の友達の友達の友達はぼく』です。 ☆☆☆☆☆ 『神様の友達の友達の友達はぼく』 (画像リンクです) ☆☆☆☆☆ この本のおもしろいところ、というか、校閲ガールとして苦しかったところは、カギカッコの中の文字が、中心からズレているところでした。 段落の最初の文章も、字下げの設定が自由。 これは……苦しい。 揃えたくなる。 そんな自分の感情と向き合いながら読んでいると、自分のかけている「色メガネ」が鮮明に感じられるんです。 人とつながることや孤独と付き合うこと、「世間」という謎の集団と自分との距離感などに、チクチクと揺さぶられている自分がいる。 わたしはどんな性格診断をしても、「孤独を愛しすぎている」と結果がでるくらいだけど、それでも、人と同じモノを持ち、人と同じ道を歩くことに安心していることがあります。 堂々巡りのつぶやきのように放たれる、数々の言葉の玉。ひとつずつポケットに入れて、ジャラリジャラリと感じていたい。 “心の壁をぶち壊すためのメソッドとか、わたしには時々暴力に思える。わたしの心の壁は、わたしのものです。あなたにぶち壊す権利はないと、静かに言える強さが欲しいわ。” 映画「クライ・マッチョ」は、メキシコに住む少年が、落ちぶれた元ロデオスターの男と一緒に旅をしながら、本当の「マッチョ=強さ」を知る物語です。 孤独のために、心に壁を築いていた少年と、老いた男の信念が、ジワジワと響いてきます。 不用意に放たれる言葉に傷つけられることもあるけど、救いもまた、言葉と共にあるのかもしれないと思った。