「マルセ太郎」という名前は、どれくらいの方がご存じでしょうか。
形態模写とパントマイムを得意とした喜劇役者で、一本の映画を再現した舞台「スクリーンのない映画館」は大人気でした。
これじゃないけど、一度舞台を観にいったことがあります。
クルッと振り返ったところで、歌舞伎役者のようにギロリと光る、目。
思わず椅子から飛び上がるくらい怖かった……。
若いときはいろんな“やんちゃ”をし、芸人となってからも“バカ売れ”したわけではないけれど、多くの芸能人のファンを持っていました。永六輔さんや立川談志さん、古舘伊知郎さんらがファンとして知られています。
実は、さまざまな“奇病”の持ち主でもあって、病との付き合いを綴ったエッセイ『奇病の人』を残されています。
ユーモアと愛をもって、人間の生き様をみつめたマルセ太郎さん。自身のすべてを舞台に捧げた方でした。
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『奇病の人』
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マルセ太郎さんは、肝臓ガンのため、2001年に亡くなられています。『奇病の人』には、ガンと闘いながら舞台を作り続ける日常が綴られています。
最初に不調を感じたのが、山梨県の白州で行われたアートキャンプに参加した時だったそう。「アートキャンプ白州」とは、舞踊家の田中泯さんが主宰するイベントです。
田中泯さんの踊りと生き様を追ったドキュメンタリー映画「名付けようのない踊り」にも、“畑仕事で作り上げた身体”で踊ろうと決めた田中泯さんが、農作業をされる様子が出てきます。
マルセさんは、田中泯さんの東京の拠点である「プランB」でも舞台公演をおこなっていて、この時の経験が、自身の芸を大きく変えたと語っておられます。
ですが、キャンプの途中で腹痛を訴え、帰宅。検査入院を繰り返し、分かったのは肝臓ガンでした。
さまざまな病気と付き合ってきたせいか、なんというかとても前向きな捉え方をする方で、この経験を「幸運だった」と述懐されてるんですよね。
そして、本人に告知をするかどうか、医療チームや家族の判断に委ねられていた時代なのですが。
看護師から「ガンの告知は受けましたか?」と質問されてとまどう……などなど、病院生活でさえも笑いに包んでしまう。
4度の再発を抱えながらも、多くの人に支えられ、「マルセ喜劇」を完成させ、興行を行うまでの過程は、読んでいてハラハラドキドキでした。
在日朝鮮人二世として貧しい地域に生まれ、職も学もなく、将来の希望もない。ヒロポンでフラフラしていたマルセさんを救ったのは、マルセル・マルソーのパントマイムでした。
マルソーの名前にあやかって付けた芸名「マルセ太郎」を、一躍有名にした舞台「スクリーンのない映画館」も、実は苦し紛れに生まれた芸。その後、永六輔さんのアドバイスを受けて磨き上げ、人気作品にしていったのだそうです。
「生きることは演じること」という言葉そのままに、最期の最期まで、「喜劇の人」として生きたマルセ太郎さん。その自然体の言葉は、いま読んでも「おかしい」んです。
猿よりも猿らしいと言われた姿が、目に浮かぶ。
田中泯さんも、マルセ太郎さんも、時代に迎合せず、長いものに巻かれず、自身の芸をきわめた方といえます。
その生き方、地に足の付いた哲学に触れることは、日々の栄養剤になりました。
マルセさんの芸を知りたい方には、『芸人魂』もおすすめです。
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